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東京地方裁判所 昭和34年(行)114号 判決 1966年2月17日

原告 西村周三

被告 農林大臣

訴訟代理人 鰍沢健三 外三名

主文

西村久五郎が明治二八年四月八日付をもつてした別紙物件目録記載の山林(立木を含む。)に対する下戻申請について、被告がなんらの処分をしないことが違法であることを確認する。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は、主文同旨の判決を求め、その請求の原因及び被告の主張に対する反論として、次のとおり述べた。

一、旧弘前藩においては、殖産興業の手段として漆方等の制度を設け領民に漆木の仕立(植栽)を指導奨励した。そして領民が漆木を植栽し割渡しをうけた土地は、漆木が成木すればその者の所有とする慣行が行なわれていた。別紙物件目録記載の土地(以下本件山林という。)及び附近一帯は、明治四年六月版籍奉還により一応形式的に国の所有に帰する以前においては弘前藩の所領であつたところ、原告の曽祖父西村幸助は同藩より漆木の仕立方を命ぜられ、「旧藩漆仕立場所元帳」に「赤滝沢ヨリ上赤荷沢マデ」一万二〇〇〇坪と表示されていた地域については安政二年(一八五五年)に漆木二五〇〇本を、同元帳に田茂ケ平一万二〇〇〇坪、池の平一万二〇〇〇坪と表示された地域についてはともに文久元年にそれぞれ漆木三〇〇本、同五〇〇本を植付け、これらはいずれも根付いた。そこで、幸助は文久二年正月(一八六二年)に同藩からこれら三カ所の地域の割渡しを受け、漆木も成木したので爾来これを所有地として支配してきた。右元帳に「赤滝沢ヨリ赤荷沢マデ」一万二〇〇〇坪と表示された地域は、赤滝沢、矢櫃沢、源兵衛沢及び赤荷沢の全域、すなわち本件山林に該当するものであつて、実面積は九六二町歩である。

二、本件山林は、前記のとおり、明治四年六月版籍奉還により形式的には国の所有に属することとなつたので、幸助の相続人西村久五郎は、明治一六年一二月以来再三にわたり本件山林、田茂ケ平及び池の平の三カ所の土地ほか一カ所の土地につき、幸助の植付けた漆木が成木し同人の所有地となつていたことを根拠として、その引渡し方を青森県知事に請願してきた。しかし、なんらの処分もなかつたので明治二六年一〇月四日同知事にあてて「元漆山御引渡ノ義ニ付願」と題する書面をもつて同様の理由にもとづき再度その下渡しを請願したところ、同二七年二月一五日付で「願之趣聞届難シ」として却下された。却下の理由を内々に聞き合せたところ、出願地域があまり広大なため不許可となつたが、調査にも手間どるから分離して申請した方がよい旨の示唆をうけたので久五郎は明治二八年四月八日漆木植付けの確証のえられなかつた前記その他の一カ所の山林を放棄し、三カ所の山林中地勢及び順路の関係から本件山林、すなわち「赤滝沢ヨリ赤荷沢マデ」の一団地(いずれも沢)を一通とし、田茂ケ平及び池の平を一通とし、都合二通の「漆仕立方遺漏編入願」を提出し、前同様の根拠にもとづき、再度右各土地の下渡しを請願した。これに対する処分がのびのびになつているうちに明治三二年四月一七日法律第九九号国有土地森林原野下戻法(以下下戻法という。)が施行され、地租改正(明治政府は、版籍奉還によるものも広くこれに含まれるものと取り扱つていた。)により国有とされた土地、森林、原野若しくは立木について、その処分当時所有、分収の事実を証する者は、下戻の申請をすることができることとなり、右法律施行前にされた下戻に関する申請はすべてこれによつたものとみなされることとなつた(同法第一条、第七条)。しかし、なお処分がないので久五郎は明治三五年一〇月二日右と同様の再願書二通を主務大臣にあてて提出したところ、明治三七年八月二四日時の主務大臣であつた農商務大臣清浦奎吾より、前記の明治二八年四月八日付の田茂ケ平及び池の平を目的とする一通の申請に対し、「明治二八年四月八日付申請漆仕立山下戻ノ件池ノ平ノ一筆ニ限リ聞届ク」との指令があつた。しかし、本件山林を目的とする同日付の今一通の下戻申請についてはなんらの処分がなかつたので、久五郎の相続人(久五郎は明治三八年八月一九日死亡)西村幸次郎及び同人の相続人(幸次郎は大正六年四月一日死亡)である原告は明治三九年以来数回にわたつて当局に対し右処分をされたい旨の請願を続けてきた。しかし、当局は、前記「池ノ平一筆ニ限リ聞キ届ク」との指令によつて本件山林についても処分ずみであるとの見解をとつて今日に至るまで本件山林の下戻申請に対する応答をしていない。

そこで、原告は西村久五郎が明治二八年四月八日付をもつて農商務大臣に提出した(下戻法により同法による申請とみなされた。)本件山林の下戻申請に対し、被告がなんらかの処分をしないことが違法であることの確認を求める。

三、久五郎が提出した明治二八年四月八日付「漆仕立方遺漏編入願」及び同三五年一〇月二日付再願書がそれぞれ二通であることを直接立証する右各願書は、大正一二年の関東大震災による農林省の火災によつて滅失し、また、喜良市営林署の明治四二年の罹災により右関係書類も滅失し、原告のもとにも控書類はない。しかし、久五郎が明治三五年一〇月二日再願書二通を提出したことは、喜良市村役場の明治三五年収受件名簿に同日付で受付番号を異にする(五四四号、五四五号)再願書二通の受付が記録されていること及び昭和四年一二月一一日付農林省山林局長より青森営林局長あての文書(林第五二一号、甲第六号証)に「請願者ヨリ指令未済ノ証拠トシテ提出セル明治三十五年村役場件名簿ハ単ニ漆仕立山下戻ノ儀ニツキ再願ヲ二通同日ニ差出シタルコトヲ知リ得ルニ止マリ云々」とあることから明らかであること、再願書が二通提出されたということは本願も二通提出されたことを推測させるものであること、再願書の提出時期が明治三五年、すなわち下戻法による申請期限である明治三三年(同法第一条参照)の二年後であることから推して、再願において本願以外の分を追加したとは考えられないこと、以上の諸点から、久五郎は、前述のとおり、明治二八年四月八日に「漆仕立方遺漏編入願」二通を提出したものと推認すべきである。かように明治二八年四月八日の「漆仕立方遺漏編入願」が二口のものであつたとすると、本件山林が沢続きの一団地であるに対し田茂ケ平、池の平の両地が尾根続きの一団地である点、本件山林が田茂ケ平、池の平の両地を合わせたよりはるかに広いこと、当局は明治三六年(前記農商務大臣の指令の前年)旧六月二二日係官を派遣して、処分のため現地調査を行なつたがその際調査は田茂ケ平、池の平のみで終つていること、以上の諸点から考えて、右二口の申請の一つは本件山林を目的とするものであり、他は田茂ケ平及び池の平を目的とするものと推認すべきである。そして、申請が右のような内容の二口のものであつたとすると、右述のように明治三六年の調査においても本件土地についてはなんら実地調査が行なわれていないこと、及び官民有区分の杜撰さを是正する意味をもつ下戻処分にあたつて、まつたく実地調査を行なうことなく処分をすることは考えられないこと、などの諸点から推して、前記農商務大臣の指令は、田茂ケ平及び池の平を目的とする一口の申請に対するものであつて、本件山林を目的とする今一つの申請に対するものではなかつたと認むべきである。

被告は、申請が二口であつたことを原告が主張し初めたのは、大正一二年の大震災により農林省の書類が焼失した後であつて、それ以前に原告先代幸次郎から提出された下戻に関する願書には田茂ケ平、池の平及び本件山林の三カ所の土地が下戻目的地として一個の願書に併記させていたというが、幸次郎が被告主張の願書に三カ所の土地を併記したのは、同人が初め前記農商務大臣の指令の趣旨を差し当り池の平一筆につき下戻を許可するとの趣旨(すなわち、田茂ケ平についても処分を留保するとの趣旨)に誤解していたことと法律家でない同人が申請が二口であることの意義を十分理解しなかつたこととによるものである。申請が二口であつたことの主張が比較的遅かつたのは前述の喜良市村の収受件名簿の発見が遅れ確証をつかむことができなかつたことによるものである。従つて、これらの事実は申請が本来二口であつたことを否定する根拠とはならない。

被告は、また幸次郎が所持していたという明治三九年一一月二八日付願書控の末尾に「返戻ノ主意」と題する記載部分があり、これが出願人の記載にかかることを根拠として、申請が一個であつて前記指令をもつてすでに処分ずみであることは明らかであり、このことは幸次郎にもわかつていたと主張する。しかし、右記載部分は、その文体、用語方法からみて出願人本人の記載したものでないことは明らかであるからこれを根拠として原告主張のように推論することはできない。

被告は、さらに、被告主張の青森大林区署の台帳に「赤滝沢」、池の平、田茂ケ平の三カ所の土地の下戻申請が一個の受付番号をもつて登載されていることからも申請が一個であつたことは明らかであると主張する。しかし、同じ台帳に、下戻申請が明らかに二個であるにかかわらず同一受付番号をもつて登載されている事例が他に見受けられるので、右台帳上の受付番号が一個であることから、ただちに、右三ケ所の土地に関する下戻申請が一個であつたと推論することはできない。なお、右台帳の「赤滝沢」、田茂ケ平の処分欄に鉛筆書で「三七年八月二四日不許可」と記載されているのは、他の処分欄の記載が赤インクで朱書されているのと対照して後日記入された疑いがあり、かえつて右二カ所については処分未了であることを推測させるものである。

四、「赤滝沢ヨリ上赤荷沢マデ」なる表現は、「上赤荷沢」という地名は存在しないこと、及び矢櫃沢、源兵衛沢が地勢上赤滝沢と赤荷沢に挾まれていることから考えて、下は赤滝沢より上は赤荷沢までの範囲、すなわち矢櫃沢、源兵衛沢をも含む趣旨であることは明らかである。被告は、右表現は本来矢櫃沢、源兵衛沢を含まず、大正一四年四月二八日付の願書でほしいままに申請目的地に追記載されたものであると主張するが、久五郎の明治二六年一〇月四日付願書(乙第一一号証の二の二)に「百四番百五番百八番マデ元字赤滝沢ヨリ上赤荷沢マデ」なる記載があること及び被告庁と青森営林局長との往復文書(乙第五号証の二、同五号証の六の一)においても右両沢を含むことが認められていることからみても、原告がほしいままに申請目的地を追記載したものでないことは明らかである。なお「赤滝沢ヨリ上赤荷沢マデ」一万二〇〇〇坪なる表現は、被告主張のように、右地域のうちの限られた一万二〇〇〇坪の範囲を指すものではなく本件山林の全域を指すものである。このことは、池の平一万二〇〇〇坪(四町歩)の表示をもつて割渡しを受け、同じ表示をもつて下戻を許可された池の平が、実際には、池の平の全域であつて、実面積が三三町三反七畝四歩あることからみても明らかである。

五、幸助が本件土地に植付けた漆木が成木したことは、次の諸点からこれを推論することができる。

(イ)  幸助が本件土地に漆木を植付けたのは前述のように安政二年であつて、それから六年目の文久元年に池の平及び田茂ケ平に植付を行ない、右三カ所の土地につきいずれも文久二年(本件土地については植付の年から七年目、池の平及び田茂ケ平については植付の翌年)に植付けた漆木が根付いたことを確認して割渡しが行なわれていることからみて、池の平に植付けたものが成木した以上、本件土地に植付けたものも当然成木したものと推認される。

(ロ)  幸助は割渡し出頭の際には百姓として苗字をもたなかつたが、その後漆仕立の功労により苗字帯刀を許されている。

(ハ)  本件山林、田茂ケ平及び池の平の地域は、今なお、幸助の名にちなんで「西幸山」の通称をもつて村人に伝唱されている。

(ニ)  地勢、順路の関係からみて、まず里に近く植栽に適する本件土地から植付けを開始し、次いでさらに奥地の池の平等に及んだものと解するのが自然であり、このことは、本件土地への植付が池の平等への植付けよりも年代的に古いことからみても推認されるところであるから、本件土地の方が池の平よりも漆木の植栽に適していたものと認められる。

(ホ)  当局が大正一四年に本件山林を調査した結果(甲第四号証の二、乙第八号証の六の四)によれば、当時本件山林一帯には苗畑跡五カ所、直径三寸以上の漆木立木四八本、伐根四五本の存在が認められ、直径三寸以下(直径三寸くらいのものでも樹令二〇年ないし二二、三年に及ぶものがある。)の漆木に至つては一五六本も存在していた。また、昭和二年の調査の結果(乙第八号証の六の二、三、同第八号証の七、甲第五号証の一、二)によつても改租(明治九年)前に植栽にかかる漆立木九本が存在していたほか、改租後の生立ちにかかる、かなりの数の漆立木の存在が確認されている。これらは原告の曽祖父幸助の植栽したものであるか、若しくは当初の植栽木の天然下種や伐根より成育したものであつて、右の状況は成木の事実を裏書するものである。被告は右各調査の結果につき、発見された漆立木の多くは生立ちの新しいものであり、改租前の植栽にかかると認められる九本ですらも、その推定樹令からみて幸助が植付けたものとは認められないと主張するが、本件土地が国有とされたころから入山養林が許されず、当時漆木を漁業用「アバ木」(浮き)として盗伐することが流行したこと、漆仕立の方法として、いわゆる「かき殺し」の方法か伐根法等があるほか漆木は天然下種よりも成育するものであること等の事情を考慮すれば、仮りに右各調査によつて発見された漆木が幸助の植付にかかるものと認められないとしても、幸助の植付当時から永い年月を経た右調査当時においてもかよう多数の漆木が存在していたこと自体が前記のような諸事情とあいまつて、幸助のかつて植栽した漆木が成木していたことを推測させるものである。

以上の諸点から考えて、幸助の植栽した漆木が成立していた点では、本件土地と池の平とはまつたく同一事情にあつたことは明らかであるから、池の平の下戻が許可された以上、本件山林の下戻も当然許可さるべきものである。

原告訴訟代理人は、以上のとおり陳述した。

(証拠省略)

被告指定代理人は「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、請求原因に対する答弁及び被告の主張として次のとおり述べた。

一、請求原因一、二の事実のうち、旧弘前藩において原告主張のように領民に漆木の仕立を指導奨励したこと、本件山林が弘前藩の所領であつたころ原告の曽祖父西村幸助が同藩より漆木の仕立方を命ぜられ、「旧藩漆仕立場所元帳」に「赤滝沢ヨリ上赤荷沢マデ」一万二〇〇〇坪と表示された地域については安政二年(一八五五年)に、同元帳に田茂ケ平一万二〇〇〇坪、池の平一万二〇〇〇坪と表示された地域についてはともに文久元年に、それぞれ原告主張の本数の漆木を植付けたこと、幸助が文久二年正月(一八六二年)右表示の地域三カ所の割渡しを受けたこと、本件山林が明治四年六月の版籍奉還により国の所有に帰したこと、幸助の相続人西村久五郎が明治一六年一二月から明治二七年二月一五日にかけて右三カ所の土地ほか一カ所の土地の引渡し方を請願し、却下された経過が原告主張のとおりであること、久五郎が明治二八年四月八日漆木の成木を根拠に右三カ所の土地の下渡しを目的として「漆仕立方遺漏編入願」と題する願書(それが一口のものであるか二口のものであるかの点を除く。)を提出したこと、下戻法が施行され右請願が同法による下戻申請とみなされたこと、明治政府が地祖改正により国有に編入されたものにとどまらず版籍奉還により国の所有とされた土地についても下戻法を適用する取扱いをしたこと、久五郎が明治三五年一〇月二日同様の再願書(一通であるか二通であるかの点を除く。)を提出したこと、明治三七年八月二四日主務大臣より原告主張のような内容の指令が発せられたこと、明治三八年八月一九日久五郎が死亡し西村幸次郎が相続人となり大正六年四月一日同人が死亡し原告が相続人となつたこと、幸次郎及び原告から明治三九年以来数回にわたり請願があり、これに対し当局が終始右指令によりすべて処分ずみであるとの見解をとり、あらためて応答をしないまま今日に至つていること、本件山林の実面積が原告主張のとおりであること、以上の事実は認めるが、その余の事実はすべて争う。

二、久五郎が明治二八年四月八日提出した「漆仕立方遺漏編入願」は、「赤滝沢ヨリ上赤荷沢マデ」、池の平及び田茂ケ平の三ケ所の土地を目的とする一通のものであり、明治三七年八月二四日の「池ノ平一筆ニ限リ聞届ク」との指令は、右一個の申請に対して、池の平のみの下戻を許可しその他の二カ所については申請を却下するとの趣旨でなされたものである。従つて、本件山林の下戻申請についてはすでに処分ずみであるから原告の本訴請求は失当である。下戻申請が一個であつて、右指令によりすでに全部処分ずみであることは、次の諸点から考えて明らかである。

(イ)  原告は、大正一二年の大震災により農林省の書類が焼失した後初めて申請が二口であつたことを主張し初めたもので、それ以前に原告先代幸次郎の提出した明治三九年一一月二五日付、同月二八日付、同年一二月付、明治四〇年一月一一日付の各願書には、いずれも、下戻目的地として三カ所の土地が一筆に併記され、申請が二口であつたことについてはなんらふれられていない(このことは、大正一四年青森営林局員が原告につき調査した際同人より提示された右各願書の控え((乙第五号認の六の四ないし七はその写し))から推認することができる。)。ことに、右のうち明治三九年一一月二八日付の願書控え(乙第五号証の六の五参照)の末尾には、「返戻ノ主意」と題して「池ノ平ノ一筆ニ限リ聞届ケタルモノニシテ他ハ聞届難相成モノニ有之然ルニ申請人ハ指令誤解ヨリ本願提出ノモノト被認候ニ付本人ヘ論示方大臣ノ命ニヨリ山林局長ヨリ申来リタル趣大林区署ヨリ当地小林区署ヲ経十二月廿七日返戻セラル」なる記載があり、この部分は、前記調査の際の係官が説明書きを加えているとおり、出願人幸次郎が記載したものと認められることから考えても、申請が一個であつて前記指令によつて全部処分ずみであつたことは明らかであり、幸次郎自身もこれを知つていたものと認められる。

(ロ)  明治三六年四月一日付の青森大林区署の「国有林野下戻申請事件各村大字別台帳」に「赤滝沢」、池の平、田茂ケ平の三カ所の土地に関する下戻申請が一個の受付番号(「二十八年四月東四〇号」)をもつて登載されていることは、申請が一個であつたことの証拠である。

(ハ)  原告主張のように番号を異にする再願二通の受付記録があつても、一通は農林省に他の一通は内務省に提出されたとも考えられるので、この事実を根拠に内容を異にする再願ないし本願が二通提出されていたことを推論することはできない。

三、「赤滝沢ヨリ上赤荷沢マデ」なる表現は本来、矢櫃沢、源兵衛沢を含むものではなく、原告は、大正一四年四月二八日付の願書(乙第五号証の五参照)でほしいままに右両地を申請目的地に追加記載したものである。また「一万二〇〇〇坪」という面積の表示は「赤滝沢ヨリ赤荷沢マデ」の地域のうち漆木を植付けて割渡しを受けた範囲の限られた一万二〇〇〇坪の地域を指すものである。元来、割渡の制度は、藩庁側で適地を選定して漆木仕立の希望者に対しその流域またはおおよその反別を指示し特定の地区を限つて漆木の植付を許可するものであるから、「一万二〇〇〇坪」の表示が限られた特定の地区を指すものであることは当然である。

四、漆木の植付にかかる地盤の所有関係に関する旧藩時の慣行は、必ずしも原告主張どおりの内容のものではなかつた。すなわち当時においては、原則的に、「官地私木」の制度が認められ、ただ、畑同様に開墾して漆木を仕立ててその成木をみたものについては、その漆木とともに土地の所有をも認めたものもあり、明治政府は、かようなものにつき、旧時の慣行を尊重して民有に下戻する方針をとつたが、それにとどまらず「官地私木」のままであつたものについても、漆木の成木の認められたものは、旧藩時における地盤の所有関係にこだわらず、これを民有に下戻する方針をとり、なお、割渡しを受けながら漆木を植えないで松、杉等を植付けたような地域についてさえも、その労費を認めて下戻を認めた事例もある。

五、本件山林については、漆木の成木の事実は認められない。元来、成木とは、相当の本数の漆木が一定の区域内に成育することをいうものと解すべきであるが、大正一四年及び昭和二年の現地調査の結果により発見された本数程度の漆木が本件係争地内に点々存在するからといつて、ひば等の天然生巨木が一帯に繁茂する広大な本件土地の全域にわたり漆木が成木していたとは到底認められない。そればかりでなく、右調査により発見された漆木の大部分は改租(明治九年)後の天然生のものであり、昭和二年の調査において改租前の成立にかかるものと推定された九本も当時の推定最高樹令は六三年であつて西村幸助の植付けたものとは認められず、しかも、これらの古木は急峻地である矢櫃沢、源兵衛沢には一本も存在しない状況であつた。原告はなお、幸助が漆仕立の功により苗字帯刀を許されたこと及び本件山林が「西幸山」と通称されていることを根拠として成木の事実を推定すべきであると主張するが、幸助が池の平の下戻を許可されていることから考えて、苗字帯刀を許されたのは池の平における漆仕立の功にもとづくものとも考えられ、また「西幸山」なる通称は池の平地区のみを指すものであるから、これらの点を根拠として本件山林における成木の事実を推認することはできない。そればかりではなく、下戻の許可された池の平地区には人工植栽と思しき杉林の部分等が存在するが、本件山林は、これと異なり、右述のようにひば等の自然林であつて、林相も池の平とは同一でないところ、前述のように、下戻の許可に当たつては松杉等を植栽した事実を考慮にいれた事例もあり、池の平の下戻の許可は、必ずしも漆木の成木の事実のみを根拠としたものでないとも考えられるので、原告主張のように、池の平の下戻が許可された以上当然本件土地の下戻も許可されなければならないということはできない。

被告指定代理人は、以上のとおり陳述した。

(証拠省略)

理由

本件山林及び附近一帯が旧弘前藩の所領であつたころ原告の曽祖父西村幸助が同藩から漆木の仕立方を命ぜられ、「旧藩漆仕立場所元帳」に「赤滝沢ヨリ上赤荷沢マデ一一万二〇〇〇坪と表示された土地(これに矢櫃沢、源兵衛沢が含まれるかどうか及び一万二〇〇〇坪の表示が右土地のうちのかぎられた部分を指すものであるかどうかの点はしばらくおき)については安政二年(一八五五年)に二五〇〇本を、同元帳に池の平一万二〇〇〇坪、田茂ケ平一万二〇〇〇と表示された土地についてはともに文久元年にそれぞれ五〇〇本、三〇〇本を植付けたこと、幸助が右三カ所の土地につき文久二年(一八六二年)に割渡しを受けたこと、右各土地が明治四年六月版籍奉還により一応国の所有となつたこと、幸助の相続人西村久五郎が明治二八年四月八日に右三カ所の土地につき、植付けた漆木が成木していたことを根拠に、「漆仕立遺漏編入願」(これが「赤滝沢ヨリ上赤荷沢マデ」を目的とするものと池の平及び田茂ケ平を目的とするものと二口のものであつたかどうかの点はしばらく別として)を提出して右各土地の民有下渡し方を申請したこと、下戻法の施行により右申請が下戻法にもとづく申請とみなされ、明治政府が旧藩当時漆木を植付けて成木をみていた地域については下戻法による下戻の対象となるとの取扱いをしていたこと、久五郎が明治三五年一〇月二日同様の再願書(それが二口のものであつたかどうかはしばらくおき)を提出したこと、明治三七年八月二四日時の主務大臣であつた農商務大臣より「明治二八年四月八日付申請漆仕立山下戻ノ件池ノ平ノ一筆ニ限リ聞届ク」との指令があつたこと、当局が明治二八年四月八日の久五郎の申請は一口のものであり右指令によりすべて処分ずみであるとの見解をとり今日に及んでいること、以上の事実は、当事者間に争いのないところであるが、少くとも被告の自認するところである。

(一)  本件の主な争点は、明治二八年四月八日の申請が原告主張のように「赤滝沢ヨリ上赤荷沢マデ」を一口とし池の平及び田茂ケ平を他の一口とする二口のものであつて、明治三七年八月二四日の農商務大臣の指令が後の一口に対するものであるか、それとも、被告主張のように右申請が三カ所の土地を目的とする一口のものであつて前記指令によつてすべて処分ずみであるかどうかの点である。

そこで、証拠を検討してみると、

(イ)成立に争いのない甲第六号証(乙第一二号証)及び原告本人尋問の結果によりその成立を認めることのできる甲第七号証の一ないし三によれば、喜良市村の「明治三十五年収受件名簿」に久五郎の提出にかかる同年一〇月二日付の受付番号を異にする(五四四号及び五四五号)下戻再願書二通の受付けが記録されている事実を認めることができるが、このことは、一応、再願に対応して本願が二通提出されていたことを推測させるものであること、(ロ)右再願書を提出した時が下戻法にもとづく下戻申請の期限である明治三三年六月三〇日(同法第一条)からすでに約二年余を経過した時期であることから考えると、再願において本願以外の新たな申請を追加したとは思われず、再願は本願に合わせて同内容のものを重ねて提出したものと推認されること、(ハ)原告本人尋問の結果によれば、久五郎は、広大な地域を一括して下戻申請をすることは不利であるとの示唆を受けて明治二八年四月八日の申請に際しては、従前申請に加えていた前記三カ所の土地以外の土地を申請から削除するとともに、残りの三カ所についても申請を細分して提出したとのことであり、原告はかような事実を父祖から聞き伝えていること、(ニ)成立に争いのない乙第四号証の四(但し鉛筆書の部分を除く。)によれば、当時同一人で二個の下戻申請をしている事例がある(笹木千景は明治三三年六月二六日に一個の、同年六月二九日に他の一個の申請をしている。)ことがうかがわれるがこのことは前述の原告が父祖から聞き伝えている事実の真実性を裏書する一の資料となりうること、以上のような諸点を総合して考察すれば、明治二八年四月八日の下戻申請は、原告主張のとおり二口に分けて提出されたと認めるのが相当である。

かように明治二八年四月八日の下戻申請が二口であつたことが動かない事実であるとすれば、次に述べるような事情からみて一口は池の平及び田茂ケ平を目的とするものであり、他の一口は「赤滝沢ヨリ上赤荷沢マデ」を目的とするものであると認めるのが相当である。すなわち、(イ)成立に争いのない甲第一号証、乙第八号証の六の四(添付図面)及び同第八号証の七(添付図面)並びに検証の結果によれば池の平と田茂ケ平とは地勢上一団地を形成していること、(ロ)「赤滝沢ヨリ上赤荷沢マデ」なる表示は矢櫃沢、源兵衛沢をも含む趣旨であることは後に認定するとおりであり、これを含む全地域は池の平と田茂ケ平とを合せたものよりも広大であることは前記甲第一号証、乙第八号証の六の四及び同第八号証の七によつても明らかであるから、申請を有利にするためこれを二口に分割するとすれば、池の平及び田茂ケ平を一口とし「赤滝沢ヨリ上赤荷沢マデ」を一口とすることが常識的にみて合理的と考えられること、(ハ)「赤滝沢ヨリ赤荷沢マデ」なる表現は成立に争いのない甲第二号証(漆仕立場所元帳)にも用いられており、原告の先代らが提出した願書類(乙第一一号証の二の二、同第五号証の六の四ないし七)においてもこれを切り離すことなく常に一括して右のような表現がとられていること、以上のような諸点を合せ考えれば、二口の申請のうち一口は池の平及び田茂ケ平を、今一口は「赤滝沢ヨリ上赤荷沢マデ」を目的とするものであつたと推認するのが相当である。

そこで、申請が右認定のような二口のものであつたことに、(イ)指令の文言からみてそれが池の平を含む一口に対するものであることは明らかであること、(ロ)原告本人尋問の結果及びこれによりその成立を認めることのできる甲第七号証の一、二によりうかがわれる次の事実、すなわち右指令の前年に当たる明治三六年に処分決定のため現地調査に派遣された係官が久五郎ら立会の下に実地見分を行なつた際、実地調査は池の平及び田茂ケ平だけで打ち切られ、本件山林については、その時にも、その後指令があるまでの間にも、あらためて実地調査が行なわれた事実はないこと(ハ)後に認定するように、幸助の植付けた漆木が成木していたかどうかについては、本件山林と池の平とはそれほど事情を異にしていたとは考えられず、本件山林についてのみ成木の事実がないとして申請を却下するについては慎重な現地調査を必要とするものと思われるのみならず、下戻処分が、一応国有化された土地につき旧藩当時の慣行等の実情調査にもとづき民有下渡しを実行する趣旨のものであることから考えても、本件山林につきなんらの現地調査をも行わないで処分を決定することは普通考えられないこと、以上(イ)(ロ)(ハ)の諸点を考え合せれば、問題の指令は、池の平及び田茂ケ平を目的とする一口の申請に対して、池の平のみの下戻を認め、田茂ケ平については申請を却下する趣旨において行なわれたものであつて、「赤滝沢ヨリ上赤荷沢マデ」を目的とする今一口の申請については、当時、なお、処分が留保されていたものと認めるのが相当である。仮りに、当局の内部的、主観的意思においては、右指令により「赤滝沢ヨリ上赤荷沢マデ」についても下戻を許可しないとする趣旨であつたとしても、前記のような事情の下では、指令を受けた幸助の側からみれば「赤滝沢ヨリ上赤荷沢マデ」については、いずれ、あらためて調査の上何分の沙汰があるものと期待しその趣旨に解することはむりからぬことであつて、行政処分は、その表示されたところに従つて客観的、合理的に解釈されなければならないものである以上、右指令は客観的合理的解釈においては、たかだか、池の平及び田茂ケ平を目的とする申請に対するものと解しうるにとどまり、これをもつて、今一口の申請に対しても処分ずみであるとすることには無理があるものといわねばならない。

以上認定の点について、被告は、いくつかの点をあげて反論を加えているので、以下において、右認定をくつがえすに足りる証拠があるかどうかを検討する。

(1)  被告は、まず、原告が申請が二口であることを主張し始めたのは大正一二年の震災による記録焼失後であり、これより前原告先代の提出した願書には三カ所の土地が併記されていること、原告の所持していた明治三九年一一月二八日付の願書末尾に「返戻ノ注意」と題する部分の記載がありこれが出願人幸次郎の記載したものと認められることを根拠として、申請は一個であつて前記指令により全部処分ずみであつたことは明らかであり、幸次郎自身もこれを知つていたと主張する。そこで考察するに、なるほど、成立に争いのない乙第五号証の六の四ないし七(但し六の五については成立に争いある部分を除く。)によれば、幸次郎の提出した明治三九年一一月二五日は、同月二八日付、同年一二月付、明治四〇年一月一一日付各願書には三カ所の土地が下戻目的地として併記され申請が二個であつたことにはなんらふれていないことが認められる。しかし、前掲甲第七号証の一、二及び原告本人尋問の結果によれば、原告の先代らは、前記指令の趣旨を、差当り池の平のみの下戻を許可するとの趣旨に誤解し、田茂ケ平及び「赤滝沢ヨリ上赤荷沢マデ」についてはおつて詮議の上何分の処分があるものと期待していたことがうかがわれるので、申請が二口であつたことの法律的意義を十分理解しなかつた原告先代らが、処分未了と考えられていた残りの二カ所の土地につき処分を督促することを主眼として目的地を併記したとしても、とくに不思議なこととは考えられず、右併記の事実を根拠として前認定をくつがえすことはできないものというべきである。また、明治三九年一一月二八日付願書控末尾の「返戻ノ主意」と題する部分の記載(乙第五号証の六の五参照)が、仮りに被告主張のように出願人である幸次郎自身によつて記載されたものとしても、このことは、たかだか、当時当局において申請が一個であつてすべて処分ずみであるとの見解をとつていたこととこの見解が幸次郎に伝達されたこととをうかがわせるだけのもので、これだけでは、申請に関する古い記録を調査せず、明治三六年の現地調査の実情を十分知らなかつた当時の当局係官が、たまたま、前述のような経緯から田茂ケ平と「赤滝沢ヨリ上赤荷沢マデ」を下戻目的地として併記した願書が提出されたという事情も手伝つて、申請がもとから一個であつて前記指令により全部処分ずみであると誤解するに至つたものとも考えられるので、右願書末尾の記載だけでは、ただちに前認定を左右するには足りないものというべきである。なお、原告が大正一二年の大震災後初めて申請が二個であつたことを主張するに至つたのは、原告本人尋問の結果によれば、記録の焼失を奇貨としたものではなく、それまで申請が二個であつたことの確認(前記喜良市村収受件名簿)が発見されなかつたことによるものと認められるので、かような事情もまた前認定を動かすに足りるものとは認められない。

(2)  被告は、また、明治三六年四月一日付の「国有林野下戻申請事件各村大字別台帳」(乙第四号証の三)に「赤滝沢」、池の平、田茂ケ平の三カ所の土地に関する下戻申請が一個の受付番号をもつて登載されていることは申請が一個であることの証拠であると主張する。

しかし、同じ台帳には、他方で、申請の日付と目的物件が異なるところから二個の申請であることが明らかなものについても同一受付番号を付している事例が見受けられる(笹木千影については、三三年六月二六日付と三三年六月二九日付との二個の申請が「卅三年民八八六号」という一個の番号をもつて受付けられている。)ので、右台帳の記載は、申請の個数を判定する極め手にはなりえない。なお、同台帳の「赤滝沢」、田茂ケ平の各処分欄に鉛筆書で「卅七年八月廿四日不許可」なる記載があるが、他の処分欄の記載が赤インクで朱書されていることと原告本人尋問の結果とに照らせば、この部分は、後日勝手に書き込まれたものとも疑われるので、これをもつて前認定を動かすに足りる極め手となる証拠と目することはできない。

(3)  そのほか、被告は、再願が二通提出されているとしても、一通は農商務大臣あて、他の一通は内務大臣あてに提出されたことも考えられるから、再願が二通提出されているということから本願が二個提出されたことを推断することはできないと主張し、成立に争いのない乙第一二号証に右主張にそう記載のあることが見受けられる。しかし(イ)前述のように再願二通が受付番号を異にするものであること、(ロ)山林下戻に関する主務官庁は当時農商務大臣であつた(明治三二年四月一八日農商務省令第八号第二条第一項)から、とくに内務大臣に願書を提出したと推論するについては、特別の根拠事情の主張立証がなければならないが、右乙第一二号証には、この点につきなんらの記載がなく、かような特別の根拠事情の存在については被告はなんらの主張立証をしていないこと、(ハ)申請を分割して提出するに至つた前認定のような事情から推せば、同一の主務官庁に二個の申請を提出しなければ意味がないと考えられること、以上の諸点を合せ考えれば、右乙号証の記載や、単なる想像的可能性の主張をもつてしては、前認定を左右するに足りないものというべきである。

(二)  本件の今一つの争点は、下戻申請の目的地として表示された「赤滝沢ヨリ上赤荷沢マデ」なる表現が矢櫃沢及び源兵衛沢をも含む趣旨であるかどうかである。そこで考察するに、(イ)前掲甲第一号証、乙第八号証の六の四及び同第八号証の七によつても「上赤荷沢なる地名は見当らないこと、(ロ)右各証拠から明らかであるように、赤荷沢は矢櫃沢及び源兵衛沢をへだてて上に位し、矢櫃沢及び源兵衛沢は地勢上赤滝沢と赤荷沢に挾まれて存在すること、(ハ)後に認定するように、大正一二年及び昭和二年の現地調査の際に発見された漆木及びその伐根等は赤滝沢及び赤荷沢にとどまらず、矢櫃沢及び源兵衛沢にもまたがり、幸助が漆木を仕立てて成木をみていた地域は右両沢にも及んでいたと認められること、(ニ)右両沢が申請目的地に掲げられたのは、必ずしも、大正一四年四月二八日付の願書(乙第五号証の五)が初めてではなく、久五郎の明治二六年一〇月四日付願書に「百四番百五番百八番マデ元字赤滝沢ヨリ上赤荷沢マデ」とある(成立に争いのない乙第一一号証の二の二により認められる。)ほか、幸次郎の明治四〇年一月一一日付願書にも、「赤滝沢ヨリ上赤荷沢迄トアル区域範囲ハ相の股、赤滝沢、矢櫃沢、穴滝沢、金兵衛沢(通称源兵衛沢ト唱フ)赤荷沢ヲ包含スルモノニ有之」との記載があること、(成立に争いのない乙第五号証の六の七によつて認められる。)以上の諸点を総合すれば、「赤滝沢ヨリ上赤荷沢マデ」なる表示は、下は赤滝沢から上は赤荷沢に至るまでの範囲すなわち矢櫃沢及び源兵衛沢をも含むものであつて、本件山林の範囲と合致するものと認めるのが相当であり、この認定の妨げとなるほどの証拠はない。

(三)  最後に、幸助が旧藩当時植栽した漆木が成木をみていたかどうかの点につき考察する。

漆木の成木とは、漆木仕立の制度の趣旨及び前述のように明治政府が漆木の成木を根拠に下戻を認める方針をとつていたことから考えて、植付けた漆木が相当の面積の地域にわたつて漆液を採取するに適する程度に成育した状態を指すものと解すべきところ、被告は、池の平の下戻の許可は必ずしも漆木の成木のみを根拠としたものではないと主張するが、前述のように、池の平地区の下戻の許可は、同地区に植付けた漆木が成木したことを根拠とする申請に対して与えられたものであること、及び若し同地区に成木の事実が認められずその上被告主張のように本件山林についても成木の事実が認められないとすれば、幸助が漆仕立の功により苗字帯刀を許されたこと(このことは後に認定するとおりである。)の説明がつかなくなることなどから考えても、少くとも、同地区の漆木の植付けられた地域(それが具体的にどの範囲に及んでいたかはともかく)に関するかぎり、成木の事実があり、下戻の許可はこの事実を認めて行なわれたものと認めざるをえない。

そこで、右の事実に、(イ)本件土地への植付の時期が池の平への植付の時期よりも年代的に古く(この事実は当事者間に争いがない。)、しかも両地ともに文久二年(本件土地については植付の年から六年目、池の平については植付の翌年)に植付けた漆木が根付いたことを確認して割渡しが行なわれていること(この事実は、成立に争いのない甲第三号証によつて認めることができる。)から推して、特段の事情がないかぎり池の平に植付けた漆木が成木した以上本件土地に植付けたものも成木したものと一応推認されること、(ロ)成立に争いのない甲第二、三号証、証人西村勇八、同西村安次郎の各証言及び原告本人尋問の結果によれば、幸助は漆仕立の功により苗字帯刀を許されたものと認められるが、このことは、なんといつても、池の平への植付五〇〇本だけの成木の功によるとみるよりも本件土地への植付二五〇〇本をも合せたものの成木の功によるものと推認することがいつそう自然であること、(ハ)植栽は普通適地から始めて次第に不適地に及ぶと考えるのが常識であり、本件土地への植付が池の平への植付よりも年代的にかなり古いことは漆木植栽の適格性において本件土地は池の平に勝るとも劣らないものがあることを推測させること、(ニ)検証の結果及び証人木田喜三郎、同黒滝武一、同西村勇八の各証言によれば、本件山林と池の平とでは、現状において、若干林相を異にするものがあり、前者に急峻地が多いとはいえ、本件山林の中にも所々緩傾斜の部分があるほか沢沿いの平坦地もあり漆木植栽の適格性という観点からみて、全体として地形、気候等の自然的条件において著しい相違は認められないこと(証人三上武男同田中秀二の各証言中に本件土地が右適格性において池の平より劣るとする部分があるが、右各証言は、前記(ニ)に掲げた各証拠及び前述の(イ)ないし(ハ)の事情に照らして採用のかぎりでない。)、(ホ)成立に争いのない甲第一号証、同第四、第五号証の各一、二、乙第八号証の六の一ないし四及び同第八号証の七によれば、当局が大正一四年一〇月本件山林の現地調査をした際、原告主張のとおり、かなり多数の漆立木、伐根、漆苗畑跡が発見され、昭和二年七月の調査においてもなおかなりの数の漆立木の存在が認められている(なお、これらは赤滝沢、赤荷沢にかぎらず矢櫃沢、源兵衛沢にも及んでいる。もつとも、被告は改租前の生立ちにかかる古木は矢櫃沢、源兵衛沢には一本も存在しなかつたと主張するが、少くとも、これより生立ちの若いものは右両沢にもまたがつて存在したことは前記各証拠によつてうかがうことができる。)こと、以上の諸点を総合して考察すれば、幸助が本件土地に植付けた漆木は池の平に植付けたものと同様に成木していたものと推認するに十分である。被告は、右(ホ)の点について、前記各調査の際発見された漆木の多くは生立ちが新しく改租後のものであり、改租前の植栽にかかわるものも推定樹令からみて幸助の植付けたものではないと主張するが、成立に争いのない乙第五号証の六の七及び同第二一号証、証人西村勇八の証言及び原告本人尋問の結果によれば、本件山林が国有とされて以来管理が行き届かないため漆木が漁業用「アバ木」として盗伐されたものが少くなかつたこと、漆木仕立の方法としていわゆる「かき殺し」の方法や伐根より発芽させる方法があるほか、天然下種より、漆木が生育することもありうることがうかがわれるので、これらの事情を考慮すれば、右各調査の際発見された漆木がたとい生立ちの若いものであつても、幸助の植付当時から永い年月を経た右調査当時においてすらなおかなりの数の漆木の存在していたこと自体が前記(イ)ないし(ニ)の事情とあいまつて幸助の植付漆木が成木していたことを推認させるものというべきである。

してみると、幸助が漆木を植付けて成木をみていた地域が具体的に本件山林中どの範囲に及んでいたかの点はともかくとして、同人が植付けた地域に関するかぎり漆木の成木をみていたことは、池の平におけるとまつたく事情はかわらなかつたと認めるのが相当であつて、明治以来の度々の請願に対し当局がもし早い時期に誠実な調査を行なつたとすれば、かような状況にあつたことは容易に認識しえたはずであつたと認められる。

(四)  以上に判断したとおり、明治二八年四月八日の下戻申請は池の平及び田茂ケ平を目的とするものと本件山林を目的とするものとの二口に分かれていたものであつて、明治三七年八月二四日の農商務大臣の指令は本来前の一口に対するものであつたと認められるところ、その後当局において申請が一個であつて右指令によりすでに全部処分ずみであるとの見解をとり今日に至るまでこの態度を変えていないことは当事者間に争いのないところであるから、被告はすみやかに本件山林を目的とする下戻申請に対しなんらかの処分をすべき義務があり、これをしないことが違法であることの確認を求める本訴請求は理由があることは明らかである。(しかも、右(三)に判断したところによれば、被告は、なんらかの範囲において下戻処分をすべき義務があるものといわねばならない)。

よつて、原告の請求は理由があるから、これを認容することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 白石健三 中川幹郎 浜秀和)

(別紙)

物件目録

青森県北津軽郡金木町大字喜良市字相の山

一〇三番 赤滝沢  二四町七反歩

一〇四番 矢櫃沢  三六九町一反三畝一〇歩

一〇七番 源兵衛沢 七九町三反三畝九歩

一〇八番 赤荷沢  四八九町六反六畝二〇歩

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